使うこと 作ること

 TVを観るのにテレビジョンの原理を理解する必要はない。エアコンを使うのにヒートポンプの原理を理解する必要がない。

 科学技術の社会的進展が人間の活動領野(環境、風土)を次第に変化させ、今日では「技術連関 the technological conj uncture」と呼ぶべきものがうまれている、という指摘がなされたのは、前世紀末でした(今道友信『エコエティカ』(1990) :講談社)。無意識のうちにも多くの人が認めているのは、人聞にとっての真に問題となる環境とはつまり自然環境であり、都市など人工空間は絶えざる改良の対象ではあっても二次的なものに過ぎないとみなすこと。「技術連関」とはその認識枠組みを批判するものであり、科学技術を環境とするものが人聞の生息圏となっているという、現代の人間世界の本質を問うものでした。そこでは、人間の主体(主観性)、統一体としての文化、人聞の本質意識としての時間性、さらには人間の中の自然(身体性)など、人間と社会、文化を考えるための伝統的な基本概念セットが無効となっているものと考えられる、と批判されます。そこから、主体の自由は根拠を失い、理解は操作に失墜し、文化は分裂した趣味群とみなされ、機械技術文明は時間を圧縮し、自然と同じく人間も利用のための材・資源とみなされるようになっている、という現代の人間の本質的な危機が問われるのです。便利さの不自由

 少し、堅苦しい文章から始めましたが、今日におけるレジャーの意味を、ここから考えてゆけるのではないかと思います。
 「自由な時間」という「レジャー leisure」の辞書的な意味は、実際のところ、自由だから何をするの? という内実の問題を私たちに残します。それを考えてゆくことがレジャー研究の最初の一歩であるとも言えますが、そこからどちらの方向に歩みを進めるかによって、レジャー研究の領域の多様な世界が生まれているものでしょう。
 ここでは一度、その最初の一歩を踏み出すところに戻って考えてみたいと思います。

 「自由」が大切だ、と問われるのは、現実が「不自由」に満ちているからでしょう。そしてもちろんその不自由さのありようは、時代や社会のありようとしての「現実」の多様に応じて違っています。それぞれの現実がもたらしている「不自由さ」を感じたときに、それぞれにとっての「自由」が求められることになるのでしょう。
 つまり、レジャー研究における「自由」の意味の探求は、対象とする「現実」の、「不自由さ」をしっかりと見つめることから始まると、そう言えるのではないでしょうか。

 現代のレジャー研究の端緒は、工業化社会という近代の都市構造とライフスタイルが一般化するなかで、人間らしさが失われているのではないか、という危機感からのものであるとされます。それはまた、物質的な豊かさが、時間的な貧困を伴っている、という反省でもあります。そこから、「自由な時間」という言葉に、この時代的な意味内容が与えられています。あくせくしないでのんびりと、というわけですが、この「不自由な」時間が、無意味で、排除すべきものなのか、というと、まったくそうではないことが問題なのです。それは、「仕事」だったり「勉強」の時間のことを意味するのですから。それは人が社会的に「意味ある」人生を送ることの中核にあるものです。なるべく仕事も勉強もしないで自由に、というのは、あまり立派なことのようには感じられません。そこからもう一度、「自由な」っていったい何? という問題に戻ってゆくことになります。
 この問いの円環は、同じことの堂々巡り、ということではありません。問いを繰り返しながら、先の問いが新たな問いとして、深まりをみせてゆくものです。仕事である、仕事だから…と言っているものの内実を問い直し、新しいかたちにつくりかえる、そのための「自由な」時間にもなり得ます。勉強っていったい何のためにするの、という問いを、(怠けるための言い訳ではなく?)人間らしく生きることの問いとして、受けとめなおすことにもなります。

 さて、そのような意味で、最初の、電化製品の便利さの問題にたちかえってみましょう。
 その動作原理について考える必要がないもの、面倒なことを考えずにただスイッチを押せばよい機械こそが、ユーザーフレンドリーな良い製品であると、誰もが考えるものではありますが、そのような機械がどんどん増えて、いつのまにか私たちの生活環境そのものを構成するまでになると、状況は違ったものになる。そう「技術連関」という言葉は告発します。
 そのような環境を生きる中では、道具を使いこなすことのように原理の理解を操作に結びつけるのではなく、機械からの人間への要求に対応することを通じて、自らそのことに意味付与を行うように、無意識のうちに人が強制されているのだ、ということです。その繰り返しの中で、人間は社会(環境)を解釈する(何ものかとみなす)ための意味ネットワーク(つまり世界観)を構築してゆくことになります。言い換えれば、技術によってうまれた環境が新たな生活世界としての自明性 phenomenological evidence を帯びてゆく、ということです(ハンス・ブルーメンベルク『我々が生きている現実』(1963) :村上則夫訳(2014),法政大学出版局)。

 このような言い方をすると、ここには常識からするとおかしなことが意味されていることに気づきます。つまり、便利な機械、何も考えないで快適さをもたらすような生活環境が、私たちにとっての「不自由さ」である、ということです。
 そしてこのことは、コンピュータの発達と日常化、AI技術の社会化を通じて、より一層、深刻なものになっていると、考えられるのではないでしょうか。

 手のひらのうちに収まり、指で触って使えるようになると、それはもうコンピュータであることさえ、人は意識しなくなります。「スマートフォン」という名前を付ければ、携帯型情報端末ではなくなってしまうわけです。メカニズム的には同じでも、パソコンを使うこととスマホを使うことは全然別のことと、みなされるようになります。
 便利は理解を必要としない、というマーケティングの原則が、人の意識を支配し、「理解は操作に失墜する」という辛辣なもの言いさえ、もはや人の心をうちません。

 数学の関数を理解しなくても、Excelは使えるような気がした、そんな時代を後にして、絵を描く技術がなくても、楽器も持っていなくても、生成AIを「使え」ば、いろんな絵や写真が「作り」出せ、作曲も演奏も思いのまま、という時代を迎えました。
 理解しなくても機械は、パソコンは、「使える」から、なんだかよくわからないけど「作れる」という状況を、つまり生活環境を、私たちは生きるようになります。
 それって本当に使っているの、という素朴な問いは、作るってどういうこと、という新たな次元に場をかえているといえます。
 不自由に対する自由の問いから、自由を広げそうなものが実は不自由をもたらしているのではないかとの、新たな段階をレジャーの問いは迎えているのではないでしょうか。