知的労働とAI レジャー研究からの応答のために
Chat-GPTをはじめ、生成AIの利用が広がっています。その一方で、本年5月21日に包括的なAI規制を内容とするAI法案がEU加盟国に承認されました。社会的な危険性は既に顕在化し、将来的に如何に制御し得るかが真剣に討議されているように、その性能は驚異的なものであり、その急速な伸長は続いています。
そしてこの技術の社会化は、レジャー研究の目的とも深く結びついているのではないでしょうか。
AIと呼ばれるもの
まず、問題となる“AI”とは何かをあらためて振返ってみましょう。
AIと呼ばれるテーマを古くまでたどれば、人間の「精神・知性」をメカニズムとしたデカルトの仮説まで遡るのが一般ですが、実際的には1950年代以降の計算機科学の研究によって現実化されたものを想定すべきでしょう。しかしそれらは、大きな期待を集める成果発表がその後長続きせず頓挫するという、挫折の歴史をなすものでもありました。転機が訪れたのは2010年代、ビッグデータと呼ばれる多量のデータ収集環境が整備され、それを処理できる機構がディープラーニングと呼ばれる機械学習技術により実現したことによります。それから今日までのわずかな期間に、マーケティングの需要予測、医療・健康診断、顧客サービスの自動化、自動運転車など、多岐にわたるサービスとして社会活用を進めています。
これらの各アプリケーションは、複数のAIモデルと技術を組み合わせたものです。一言に“AI”と呼んでも、具体的に実現されているものは、特定の用途とそれに応じた個別技術の組み合わせからなる多様なものです。そして、AIが社会に広く活用されるようになったといっても、これらはそれぞれが特定の用途に向けられたものであり、専門家や自分自身の仕事に直接関係する人々以外にとっては、日常あまり意識されるものではありません。一般には、生活環境の背後に隠れている科学技術の一種であるといえるでしょう。
LLM-AIの登場
そのなかで、今日急速に活用の可能性が広がり、また制約の必要性も語られている話題の“AI”とは、ChatGPTに代表される、LLM技術によって実現された産物です。これは技術的にも成果としても、それ以外のAI製品とは区別されるべきものだと考えられます。(私はこれを“LLM-AI”と呼ぶことにしています。一般的な用語ではありませんが、海外の学会でも、あえて説明なしに使用しても混乱なく議論が続けられますので、その意は容易に理解されるものだと考えています)
LLM(Large Language Model, 大規模言語モデル)技術とは、膨大なテキストデータとディープラーニング技術を用いて自然言語処理を目的とするシステムを構築する技術です。その特徴は、テキストデータをトークンと呼ばれる極小単位に分割したうえで、それぞれのトークンを数値化(高次ベクトル化)することにあります。その本質は、言語における「意味」を、高次ベクトル空間上の「配置」に置き換えるというアイデアです。そしてディープラーニングの仕組みとして考案されたトランスフォーマーという技術が多量のデータの処理を可能としました。その結果生まれたシステムは、内部には人間的な意味での「意味」は内包しないながら、与えられた文章の内容をあたかも「理解」しているように分析・処理したり、人から見て意味豊かにみえる文章を作り出すことができる「機能」を実現していました。その性能がAI研究者を越えて知られるようになったのは、2020年にOpenAIが限定的に公開したGPT-3によることでした。同時に有害な応用(悪用)の危険も研究者から発表されましたが、後継のGPT-3.5(2022年)、GPT-4(2023年)と開発・発表が進みました。そして、それぞれに基づいて対話型に構築されたChat-GPT(2022年11月公開)が、登場とともに爆発的な広がりを見せたことはよく知られる通りです(2か月でアクティブユーザー数1億人に到達)。
言語能力のメカニズム化
このタイプの“AI”が、なぜここで注目されるのか、それはその名にあるように、「言語」を取り扱うメカニズムであるからです。広くは自然言語処理(NLP)と呼ばれるものですが、翻訳や発話認識のような特定機能の実現ではなく、LLM-AIは、与えられた文章の内容を理解し、新たな文章を作り出すという、人間の「一般的な」言語能力に相当する機能を実現しているためです。しかもその性能は、技術の登場からまだわずかなこれまでの間に既に、全面的にとは言えないまでもかなりの範囲において、標準的な人間の能力を越える成果をみせています。AIの社会リスクが問われる領域のひとつである労働市場の問題においても、これまでも新しい技術が登場するたびに消滅した職業はあったが必ず別の仕事が生まれた、のような見方が適用できないことは、「言語」が人間の基礎をなす能力であることから明らかです。より根源的には、人間とは何かという「人間性」への問いや、「知性」とは何か、「意識」や「主体」とは何かという問いが、LLM-AIという現実の前に再活性化されているといえます。(もちろんここでは、AIが意識を持つのか、AIは知性という能力を手に入れたのか、のような問いも主張も学的には有効ではないといえます。語るべき「意識」も「知性」も、未だ明らかにされていず、前提を明確にしないままの議論は、可能ではあっても厳密なものとは言えないからです)
レジャーの問い:知的労働
レジャーの研究はここでどのように関係してくるのでしょうか?
そう問う時に私たちは、ヨゼフ・ピーパーの『Leisure, The Basis of Culture』の一節を思い出すことでしょう。かれは知的労働(Intellectual work, intellectual worker)について論じていました。彼は20世紀が知的労働の時代として語られることに対して、知的な行為は労働ではありえないと語るのです。
「知的労働Intellectual work」「知的労働者intellectual worker」という用語は、私たちが辿ってきた道の最新の道程を特徴づけるものです。それは、ついには労働の現代的な理想をその最も極端な形で私たちにもたらしていることなのです。
今日に至るまでは、知的な取り組みの領域は、労働とは無縁の一種の楽園と見なされていました。この特権的な領域の中心には「哲学philosophy」という労働の世界から最も遠いものがあったでしょう。
しかし今や、この知的行為の領域は乗っ取られ、「全面的な労働total work」の領域に占有されます。それは「労働者Worker」という「帝国的な人物像imperial figure」による征服という一貫した過程の最も新しい段階に過ぎません。そして、知的労働者と知的労働の概念は、この征服の事実を明らかなものとする、私たちの時代における挑戦なのです。
(Josef Pieper, Musse und Kult (1948). Leisure, the Basis of Culture. translation by Gerald Malsbary (1998). 第2章の冒頭を訳出しました)
彼はこの挑戦にたいして、「知的労働」という概念の歴史的な分析によって迎え撃とうとします。人間の認知行為についての、スコラ学の「知的な視覚intellectual vision」、ただ受け入れるように見ることの提示はその一歩ですが(このcontemplatioが、ギリシアの theoria, scholeと結び付けられ、レジャーの基礎概念となることはご承知の通りです)、カントに代表される近代の哲学・認識論が、それを否定することを確認します。
カントの見解では、人間の認知は本質的に、調査、表現、結合、比較、区別、抽象化、推論、証明といった行為、つまり多様な活動的な精神努力によってなるものです。カントによれば、人間による知的intellectual認知は、ただ「見る」というような非活動的なことではなく、活動activityであり、労働workの一種として理解されるべきだと結論づけられることになります。
二つの知性:ratioとintellectus
しかし、古代や中世の知性が怠惰なものであったはずもありません。ピーパーは、中世の人々がratioとしての知性とintellectusとしての知性を区別したことに着目します:Ratioは、議論的な思考、探求および再探求、抽象化、精錬、そして結論づけの力です(cf. ラテン語 dis-currere、「行ったり来たりする」)。一方、intellectusは「単に見るsimplex intuitus」能力を指し、あたかも風景が目に見えるように、真実がそれ自身を示すものです。人間の精神的な認知力は、ratioとintellectusの両方を含むものです。議論的にすすめられる推論の過程は、受容的receptiveであるintellectusの不断の視覚によって伴われ貫かれるのです。
人間の認知が、(能動的で活動的・労働的な)ratioと(受動的で非活動的・観想的な)intellectusの、相互作用であると考える彼は、次のように語ります。
確かに、哲学的な認知も努力を要する活動なしには起こり得ず、いわんや今日の「知的労働」と呼ばれる活動の成果は「労働の厄介さlabor improbus」なしにはもたらされ得ません。しかしそれでもなお、そこにはそれ以外の何かが、本質的な何かがあり、それは労働ではないのです。
人の知を問い直すこと
現代社会は、このピーパーの言葉をほぼ忘却するようにして「発展」を続けてきました。しかしその行き着いた現在が、人間を能力として不要にする機能の実現であるとしたら、それは「没落」の道であったといえるのかもしれません。
産業界ではAIをいかに活用するかの苛烈な競争が始まる今日、AIに負けない人づくり…のような、いかにも愚かなキャッチフレーズを排除して、この言語のメカニズムをどのように捉え(私は「LLM-AI:言語世界の可能性探求メカニズム」と呼んでいます)、レジャーの意味をどう位置付け直すか、どう再活性化するかを問うことが、レジャー研究の今日的な、最大の課題のひとつなのではないでしょうか。