歌われる現実

 フランス総選挙の結果は、率直にどのような気持ちを私たちにもたらしたのでしょうか。世界の崩壊が延期されたような少しの安心感? 相変らずの綱渡りが続く緊張感? 民主主義の危機を乗り越える希望? よほどのんびりしているのでない限りは、よそ事と思えないのでは? それとも、気にもならず、昨日と同じような明日が続いてゆくと…
 
 ふと、ずいぶん昔に聴いた、はやり歌として口ずさんでもいた、歌を思い出しました。「おばかさん」なフランシーヌが、焼身自殺をした女性であると知ったときにはまだ、歌詞とその出来事の意味が十分には結びつきませんでした。手足が枯れ枝のように細く、お腹だけが異常に膨らんだ幼子、ビアフラの飢餓の写真の衝撃を、さらにはこの悲惨が大国の政治に責することを、この歌と結びつけて考えることなど、子どもの精神にはできませんでした。そしてそのまま、「ほんとのこと」を言わない「おりこう」な大人になってしまったのかとも。
 
 バルトは、言葉の文字通りの意味denotationと暗示的な意味connotationの、二重・多重の関係を示しました。歌の力とは、そこに語られている事柄にとどまらず、より遠く深くまで響いてゆくことにあるのでしょう。だけれども隠されているだけに、誤解されることもまれではありません。友達の結婚式にふさわしいとして、実は別れの歌を唄ってしまうという失敗を、同席の人たちが誰も気づかない、ということさえ繰り返されるのですから。
 聴かれる歌は、詠まれる詩のようには、意味の構造を辿ることが容易ではない、ということがあるでしょう。それでも無意識のうちにも、暗示的な意味が心の底の方に響いてゆき、いい歌だな、ということになれば、誤解さえむしろ複雑な理解として、解されるべきことなのかもしれません。
 このようなことを述べながら、歌謡曲はあまり聴きも唄いもすることがありません。だから演歌など縁遠いと思っていたのですが、ある時、テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」を聴いてしまいました。かつて大ヒットしたというこの歌が語るのは、哲学や芸術など、何か崇高なものに人生をささげざるを得ない人の決意や思い、つまりはプラトンが語るエロス神Erōsのことだと、その時は思わずにはいられませんでした。改めて歌詞を読み直してみると、確かにそうとしか解釈できません。

かくしていまや、第四の狂気に関するすべての話は、ここまでやって来た。-狂気という。しかり、人がこの世の美を見て、真実の〈美〉を想起し、翼を生じ、翔け上ろうと欲して羽ばたきするけれども、それができずに、鳥のように上の方を眺めやって、下界のことをなおざりにするとき、狂気であるとの非難を受けるのだから。この話全体が言おうとする結論はこうだ。-この狂気こそは、すべての神がかりの状態のなかで、みずから狂う者にとっても、この狂気にともにあずかる者にとっても、もっとも善きものであり、またもっとも善きものから由来するものである、そして、美しき人たちを恋い慕う者がこの狂気にあずかるとき、その人は「恋する人ἐραστὴς(erastḗs)」とよばれるのだ、と。 (パイドロス, 249d-e)

 この歌を聴きながら、なにか平穏でない恋愛に身をこがれる女心の歌と思う人も、無意識のうちにこのプラトンの狂気maníaを感じていたのではないでしょうか。歌ったテレサ・テンさん自身が捧げたのは、中国の民主化に向けたものだったのかもしれません。
 
 さて、何十周も周回遅れで聴いた歌に、ひとりがってに心を揺り動かされることもあるとして、若い人たちにとっての今の歌はどうなのでしょうか。もう、「私たちの」歌はなくなってしまったとも論じられますが、ともに歌うのではないにしても、語れる歌はと聞いてみると、人それぞれに紹介してくれるのですが、その少なからずに驚かされます。歌詞の内容が実に精密で、語られていることがとても詳しく、こんなに説明してしまったら、コノテーションなどあり得ないのでは? 歌い手のごく私的なことや思いがこと細かく語られることに、「わかるゥ」となる現象は、本質的に私有の言語である日本語の、ほとんど限界に挑戦しているようなものかもしれません。あるいは、何もかもが丁寧に用意されている世界を生きる、この時代の特質の、もうひとつの現れなのだろうかとも想えてしまいます。
 抵抗の歌
 1969年3月30日の、遠い国の「ひとりぼっちの世界」の言葉が、50年をずっと越えて「ささやく」、そのような言葉はまだ私たちの近くにあるでしょうか。