震災復旧期に果たせるレクリエーションの強み

昨日、あの千年に一度といわれた未曾有の東日本大震災発生から13年が経ちました。
 2011年3月11日の14時46分、私事ですが大学の後期入試が終わり次の会議の準備を研究室でしていた際、突如過去に経験した事が無い凄まじい揺れが発生しました。咄嗟にテーブルの下に潜り込み、揺れが収まるまでの時間の何たる長かった事か・・・。研究室の本棚から本がバタバタ落下し、ロッカーの扉が勝手に開き中の物が次々に落ちていき、パソコンデッキからパソコン本体及びプリンターが落下し画面が消えていく様を今でも鮮明に覚えています。
当時、私がクラス担任をしていた体育学科D1クラスのある女子学生(3年生)は、春休みで海辺の閖上(宮城県名取市)の自宅に一人いたところに大津波が押し寄せ、尊い命を亡くしてしまいました。昨日の13回忌には、彼女と特に仲が良かった3人の女子卒業生が例年通り各々の家族を引き連れて来てくれ、亡くなった彼女のご両親と私たち夫婦を一緒にお墓参りをさせて頂きました。別れ際にお父さんから「これからも娘の事を忘れないでください。こんなに優しい友達がいて、娘も喜んでいると思います」という話をされたことが印象的でした。一人娘を亡くされたご両親の心情を思うと、毎年いたたまれない気持ちになります。そして、生かされている私たちは震災でお亡くなりになられた方々をすすれることなく、強く生きていかねばならないという使命を思わざるを得なくなるのです。

 さて、東日本大震災発生直後から、「トモダチ作戦」という名のアメリカからの人的支援を筆頭に、国内外の様々な組織や団体が被災地支援を展開していきました。それに関連して、私は震災復旧期に果たせるレクリエーションの強みという観点で忘れられないエピソードがありますので、以下に紹介させて頂こうと思います。
 宮城県牡鹿半島の先に網地島という離島(全島民で500名程度で、高齢化率が6割を超える)で起きた実話です。幸いにも、島民全員が高台に避難したおかげで、島民の死者は有りませんでした。島民の方々は、元小・中学校に避難し、そこでの生活を余儀なくされました。そこで、いわゆるエコノミークラス症候群の予防を兼ねて、仙台市の職員の方々が定期的に体育館を訪ね体操や軽い運動を指導していたようです。一方、当時私が副会長を務めていた宮城県レクリエーション協会からも事務局長をされていたレク支援の大ベテランの女性が派遣され、定期的に島民の方々を支援していました。その当初は、体育館における仙台市の職員の方々による体操や軽い運動に多くの方々が参加していたようですが、回を重ねる事にそちらに参加する方々が減っていき、県レク協会のレク支援の大ベテラン女性が提供するGSD(ゲーム・ソング・ダンス)に代表されるレクリエーションに参加す方々が増えていったそうです。では、なぜそのような現象が起きたのでしょうか!?。そこに、レクリエーション支援・支援者の強みがあったわけです。レク支援の大ベテランの女性が当初行っていたのは、被災された被災者の方々に寄り添い、いろいろなお話を聞いて回っていただけだったそうです。そして、徐々に顔を覚えてもたってから、手あそびやその場でできる簡単なレクリエーションを提供していきました。その馴染みやすさ親しみやすさと彼女の巧みな話術が相まって、笑いの絶えない時間と空間がどんどん広まっていったそうです。レク支援の基本である、対象者との会話を通したラポール形成に時間をかけ、お互いを知り分かりあってから実際の支援に移行するというレク支援特有のプロセスが、逆転現象を生み出していったと言って過言ではないでしょう。この話は、震災発生から確か3年後に県レク協会が主催した震災とレクリエーションをテーマとしたフォーラムにおいて演者としてお話をされた網地島・島民であり剣道を愛する元高校教員の男性のお話を基に記述させていただいたものです。
 今年の元旦に発生した能登半島地震の被災地は今、正に復旧期にあります。東日本大震災の時と同様に、様々な組織や団体が、さらには個人ボランティアとして復旧支援活動を展開されておるに違いありません。その中で、上記のように地元のレク協会やレク関係者が被災者の方々に寄り添い、ラポールを形成した上でのレクリエーション支援を通して一時の安堵感・安らぎ、楽しみを得て、明日に向かうエネルギーとなっていって欲しいと願っています。