見えていたもの、見えていなかったものNEW

1か月以上にもわたる夢のような、そして少し寝不足の日々が終わりました。ワールドカップ開幕前、サッカー日本代表は「史上最強」と呼ばれ、「優勝も狙える」と期待されていました。しかし、結果はベスト32。もちろん勝負の世界に絶対はありません。私が気になったのは結果そのものではなく、「私たちはサッカーという競技の何を見ていたのだろう」ということでした。

みなさまよくご存知の通り、サッカーというのは、単にボールを追いかける競技ではありません。1対1の駆け引き、ボールのない場所での動き、局所的な数的優位のつくり方、時間帯ごとの試合運び、選手交代、情報戦、そして過去の対戦の積み重ね。そうした数え切れない要素が折り重なりながら、試合全体の主導権を争っています。テレビに映るのはボールの周辺だけですが、本当に勝敗を左右しているものは、その外側にあるのかもしれません。今回の大会は、日本代表に何が足りなかったのかということより、私自身がサッカーのどこを見ていたのかについて考えさせられる大会でした。

そういえば、ワールドカップの1か月ほど前に見た2本の映画のことを思い出しました。1つは台湾映画『霧の如く』、もう1つはアメリカ映画『サンキュー、チャック』です。国も時代もジャンルも異なる作品ですが、不思議なことに、見終わったあとに心に残ったものはよく似ていました。

『霧の如く』は、1950年代、戒厳令下の台湾を舞台にした作品です。政治犯として追われる兄は、妹に1つの童話を語ります。水滴が雲となり、雨となって海へ流れ、先に旅立った友人と再会しようと約束する、という物語です。しかし兄は処刑され、その遺体を引き取る過程で、生き別れになっていた姉から、もう1つの結末が語られます。先に雲になった水滴に向かって、後発の水滴は語りかけます。「私は雲にはなれそうにない。霧として天と地のあいだを漂っている。だから、もう君と海で会うことはないだろう。それでもやれることはやったから後悔はない。」子供向けの童話が「大人を掬い上げるおとぎ話」に変わった瞬間です。話の構造は同じなのに、その結末に至った瞬間、兄妹の人生だけでなく、救われなかった人々の思い、台湾という土地が背負ってきた歴史そのものに光が当たり、まったく違う姿で立ち現れてきました。

一方、『サンキュー、チャック』は、チャックという男の数奇な人生を、過去へ遡る形でたどる物語です。普通の物語ならば原因があって結果があるという順番で話が進んでいきます。しかしこの映画では、先に見せられていた、何気なく思えた出来事が、後になって大きな意味を持ったものであったことがわかってきます。見る順番が変わっただけで、チャックをめぐる人たちの人生そのものの見え方が変わってしまうのです。

どちらの作品も、出来事そのものの構造が変わるわけではありません。変わるのは、それを受け止める私たちの理解です。

考えてみれば、これは映画だけの話ではありません。スポーツも、旅も、日常も、その場ではわかったつもりになっていても、後になって「ああ、そういうことだったのか」と気づくことが少なくありません。経験とは、新しいものを見ることではなく、一度見たものを、別の意味で見直していく営みなのかもしれません。レジャーの持つ意味もそこに見出すことはできないでしょうか。

ワールドカップが終わった今、試合を見返すと、あのときには見えなかったものが少しだけ見えてくるような気がします。そして2本の映画もまた、見終わったあとになって、静かに私の中で続いています。世界そのものは変わっていません。けれども、その意味は少しずつ変わり続けています。

『霧の如く』に登場する霧は、雲にもなれず、海にもたどり着けない存在として描かれていました。しかし私は、その霧こそが、人が生きる中で少しずつ育てていく「豊かさ」に似ているように思うのです。豊かさとは、たくさんのものを手に入れることではなく、一度見た世界をもう一度見直し、そのたびに新しい意味を見い出していけることなのかもしれません。経験と経験のあいだを漂いながら、私たちは世界を理解する以上に、世界との関わりを深めていく。その積み重ねが、人生を少しずつ豊かにしていくのではないでしょうか。