ALSA2023 から:自然のなかでのセラピー - 人間の世界と、AIの世界 それぞれの豊かさの未来は?

(ALSA 2023に参加して、発表者と討議したことや考えたことを、いくつか紹介します)
自然環境のなかでのセラピーについて、理論化と実践に取り組んでいる、Dr. ネヴィン・ハーパーの研究発表に参加しました。
 Dr Nevin Harper
 Title :  Nature-based approaches to health and wellbeing: Opportunities for leisure professionals
 
 人の健康と生の充実(wellbeing)を考えるにあたって、現代の多くの人の生活が、人間性をいかに損なうものであるか、あらめて考えさせられる内容でした。
 野外活動は、都市生活者にとってはまれにしか経験できない、特殊な機会となっていますが、それはむしろ人間の“自然” human nature に反した生き方を、まるで“あたりまえ”のように思い込んでしまっている、その結果なのかもしれません。
「高いレジリエンスを保っている環境とは、多様な生物種が相互に強く結びついているものです。今日の人間の生活は、野生の自然との、意味豊かで健全な関係から切り離されています。人の健康や幸福について、“自然”に基づいて捉え直してゆくことが必要でしょう」と語るネヴィンの話を聞きながら、少し違った角度から、この問題について考えていました。  https://www.nevinharper.com/
 
 現象学の中心的な概念にノエシス Noesis があり、「“意識”とは、例外なく“何かについての”意識であり、志向性を持つ」というテーゼがよく知られています。さて、意識と志向性が切り離せないとしたら、その対象が失われたら、意識は喪失することになるのでしょうか。あるいは、意識がある以上、意識対象は不断に“生じて”いるのでしょうか。
 人間の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの)への刺激を極端に減少させる実験、感覚遮断 sensory deprivation が、どのような結果をもたらすかについてもよく知られています。自身の身体の感覚器官を通じて、外界と常時接続している私たちの意識は、その接続を切られる(減衰させられる)と、外界には“ない”ものについて(対象として)、意識はその働きを続けます。つまり人は幻想の世界に引き込まれる(トリップする)ことになるのです。そしてそれは当の人にとって、気持ちの悪いものでも不安になるようなものでもなく、とても魅力的な体験であると知られています。東西の宗教的修行によってもたらされる精神状態や、瞑想がもたらすリラクゼーション効果との比較研究もなされています。
 さて一方、現代の都市生活は、この感覚遮断の実験室 Isolation chamber/tank のなかに、無意識のうちに閉じ込められているものとも、いえるかもしれません。
 田舎の生活は単調で、都市は刺激に満ちている、といわれますが、実際に視覚や聴覚、味覚、嗅覚、触覚などから受ける刺激は、多様性においてはるかに乏しいものです。一本の樹がつけている葉は、ひとつとして同じ形や色のものはありませんが、都市の建築物は同じ要素の繰り返しで構成されています。雲のかたちや空の色の絶え間ない変化は、アスファルトやコンクリートの形状と色彩の変化と比べようもありません。
 音の環境については、学術研究だけでなく工学や産業分野の課題としてもよく知られています。自然界においては豊富な、超音波領域 hypersonic の音は、可聴音外として都市・人工環境では抑制され、音響機器の仕様にもそれが反映されていましたが、近年は、無意識における脳の認識への影響 hypersonic effect を重視して、可聴域を越えた情報量のハイレゾ音源 Hi-Res の提供も増えてきました。そのような音響マニアの世界を例外とすれば、豊かな超音波成分を含んだ虫や鳥の声もまれな、都市生活は聴覚刺激に乏しいといえます。
 それでもなお、田舎の生活は単調で、都市は刺激に満ちている、と私たちが感じるのはなぜでしょうか?
 もちろんそれは、繰り返される刺激に対して脳が注意を向けなくなるからです。自然の風景にも慣れてしまうのです。馴化 Habituation として知られています。だから商業広告やメディア・コンテンツは、刺激の度合いを強めたり、異常値にあたるものを使おうとしがちです。そのような刺激に曝され続けることが、人の生を活性化させるよりは、傷つけてゆくことになりそうなことには、誰もが不安に思うことでしょう。
 一方、都市環境における刺激は、そのような身体感覚に関わるものばかりではありません。情報や文化など、高度に“人間的な”ものこそが、その本質だといえるでしょう。とはいえ、身体感覚的なものに乏しく知的・精神的な刺激(つまりは情報と呼ばれるもの)に大幅に偏った状況を、ひとは健全に生きることができるのでしょうか?
 わたしたちは、ほぼ抽象的・理性的な世界を生き、目覚ましい成果をあげてきた人たちを知っています。しかし彼らは、能力と環境(人生の経緯)に恵まれたゆえの、知の巨人たちであったともいえるでしょう。
 現在すでに、また今後は一層、人類の多くが都市の住人であるという状況において、人間の世界の現実が、感覚遮断がもたらす幻想トリップに近づいているとはいえないでしょうか。
 地域紛争、社会分断、ヘイト・クライム等々、対立現象は激化しています。もとより人間の社会は対立紛争が絶えまなかった、とはいえるでしょう。しかし現代のそれは、少し退いてみれば、同質に見える人たちの間で、外的には小さな差異のままに、意識においては越えられない裂け目が生じているもののようにも見えます。紛れもない“現実”、としてとらえられているものの根拠が、何か幻想のようなところに据えられているのだとしたら、この対立を解決することは、従来の理性や論理の手法では適いません。
 
 今年から一般にも開放され、広く社会活用が進みだした生成AIについて、人工知能は“幻覚 Hallucination”を生む(まことしやかに嘘をつく)から注意せよ、と語られてもいます。しかしこれは、原理としては実に論理的な現象であるといえます。生成AIは、ある閉じられた(学習された)言語世界におけるテキストの可能性を追求するメカニズムです。言語は有限の要素と限られた規則によるプログラムですが、そこから生み出しえるテキストの可能性は、人間には無限と感じられる豊かさをもっています。人間はそれを使って、科学も文学も、論文も詩も生み出し、かつ楽しむことができます。それらほとんど異種のテキスト群に対して、それぞれにふさわしい取り扱いができるのは、テキストを扱う人間の意識が、身体によって外界に、つまり大地と社会に、つなぎ留められているからだ、ということができます。
 ファンタジーを楽しみながら足は地についているのが、二重性という人間の本質であるということができます。
 
 生成AIの成功によって、汎用AIという技術の夢が急速に現実に近づいています。そのためには、生成AIのメカニズム(LLM)を核として、外界へのセンサーとアクチュエイター(感覚機関と運動機関)を接続し、その中間(媒介)に、記号化機構(シニフィアンとシニフィエの統語メカニズム)を据えるというデザインが想定されます。(実際にAI研究者がどう考えているかは不明ですが、論理的にはそう違わないでしょう)
 いわば閉じられた言語世界と外界とをメカニズム的につなぐ、つまりAIに身体を与えることが現実に取り組まれていることであると考えられます。
 
 身体的なものを発達させてゆくであろうAI、それに対して、身体的なものの働きを抑圧し減衰させ続けている人間。それぞれの“世界”の豊かさの未来は、どのようになってゆくのでしょうか?
 
 ネヴィンの話を聞きながらおのずと、野外活動が健康増進に役立つということの意味を、閉ざされそうな人間の未来を回復する手立ての問題としてと、想い馳せていました。自然への再帰のアプローチは、人間の存在論的な危機に対するセラピーとして、などと。